花祭りの法話
お釈迦様はなぜ誕生したのか?--------------------------------------

今日は、お釈迦様のお誕生会という事で皆様とお祝いが出来ました。
外には燦々と陽の光が差し、桜の花をはじめ沢山の花が咲き始めてまさに花祭りでございます。

先ほど皆様とお釈迦様の和讃をお唱え致しました。
その中にも出てきておりますが、このお釈迦様が世の中にお生まれになったという事には大きな因縁がございます。
そのお話をする前に、以前ある方の文章の中でインドのお釈迦様の歴史が書かれておりました。
その中では、最初お釈迦様が亡くなれた後は、所謂仏像という物がなかったという事だとの事でした。
亡くなられてから少し経ち、お釈迦様をしのぶという事で、足の裏の『仏足』(ぶっそく)が世に出現して、それから次第に仏像という形になってきたという歴史を勉強させて頂きました。

お釈迦様がこの世の中に出現して下さったというのは、人々が仏様を渇仰(かつごう)したんですね。渇仰とはお経の中にも出てくる言葉ですが、喉が乾いた時に水を欲しがるようにお釈迦様の出現を人々が願ったというわけです。
その人々の願いに応えてお釈迦様がお生まれになって下さったのですね。
では、なぜ人々はお釈迦様を欲したのか? と申しますと、我々が何を頼りとしてこの世の中を暮らしていったら良いのだろうか?と考えた時に 例えば、暗い夜の海を航海する船にとって灯台の明かりが頼りであるように、我々にとって一番の頼りがお釈迦様の教えであるように求めたのですね。
しかし、このお釈迦様の教えがお経という形、あるいは口から口へ伝わった教えという事では、人々は満足出来ないのですね。
やはり、目の前にお姿を見せて下さって、そして目の前で口から教えを説いて下さると、我々は『あーそうなのか』という気になれる。
姿が見えませんと、いくら教えを聞いても十分納得が出来ないので、お姿を見せて欲しいという気持ちが 『渇仰』ですね。
これが因縁となって、お釈迦様が人間の姿としてこの世に出現して下さった。これが4月8日の今日のお誕生日という事になります。

お釈迦様がそのように人々の前に姿を現して下さって、また亡くなられ、涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)を示された。
その、お釈迦様の生まれてから亡くなられるまでの間、当時のインドの人々は直接教えを頂けたわけです。
ところが、お釈迦様が亡くなられた後、次にこの世に表れて下さる仏様は弥勒菩薩(みろくぼさつ)ですね。
お釈迦様が亡くなれて、その弥勒菩薩様が現れて下さるまでの間を『二仏の中間』(にぶつのちゅうげん)と言います。
我々は丁度、この二仏の中間で仏様のいない時に生きております。
我々がお釈迦様から直に教えを聞きたいと思っても、これは叶わぬ事でございます。
そこで、お釈迦様をイメージしてだんだん出来てきたのが仏像でございます。
仏像というお姿で我々の前に現れて下さっている仏様はほんの一部で、我々には見えない仏様が多くいらっしゃるのですね。
では、後の仏様は一体どうしているのでしょうか?
これは電気のようなもので、電気は見る事は出来ませんがその電気は蛍光灯やエアコンなどを動かし、そういう形で電気が来ているなという事が分かります。
それと同じように、仏像として姿が見えれば仏様がおられるなという事が分かります。
では、それ以外は分からないのか? と言いますと、実は我々はそれ以外でも仏様を分かる事が出来ます。
これは、よく我々の仲間内でも『あの人は仏様のような人だ』というような人がおられますね。
実は、これも仏様なのですよ。
それ以外にも、我々がひょんな事でつまずいたり、転んだりしても大した怪我をせずに済んだ時などは『あー運が良かった』と感じますよね。
このような時も仏様の力が働いているのです。
ただ、我々にはその時仏様の姿が見えないから『運が良かった』という言葉で済まされます。
でも実は、仏様が我々を救ってくれたという事なのですね。

お経の中にありますように、仏様はいつも姿形を変えて我々の前に現れて下さっているのですね。
ですから、仏像というお姿で現れてくれている仏様はほんのわずかで、その他多くの仏様は電気と同じでお姿が見えないんですね。
でも、我々はそれを感じる事が出来ます。それを分かり感じるようになるには、先ほど申し上げましたように、我々が『仏様に会いたいな。』『仏様に助けてほしい、救ってほしい。』という気持ちを強く持てば、仏様の存在を感じる事が出来るようになります。

今日は花祭りという事で、今から約2500年前にお生まれになったお釈迦様のお誕生日を皆様とお祝い出来ました。
また、本当ならば天から甘露の水が注いでくださればさらに良かったのですが、あまり多くを望んではいけませんので、 これだけ花の咲き乱れた天気の良い日にお釈迦様のお誕生日会が無事出来た事に喜びを申し上げまして本日の法要を終わりにさせて頂きます。

ありがとうございました。