春の大祭の法話
『縁と絆』--------------------------------

5月の11日に慰霊法要を岩手県の気仙沼市で行いました。

気仙沼市の会場となったお寺は、山の上の方にありましたので津波の被害は受けておらず、また、岩の上に建っているものですから建物も無事だったようです。そこで、比叡山から満95歳の大僧正猊下がお見えになられて、私ども4、50人の僧侶と一緒に法要をさせて頂きました。

市民の方など本堂には2,300人おいでになりましたでしょうか。
そこで南無阿弥陀仏をお唱えさせて頂きましたところ、本当に堂内が一糸乱れぬお念仏で皆さんの想いが伝わった気が致しました。

後で聞いた話しですが、やはり行方不明者を出されたご家族の参加はお一人もなったとの事でした。

気仙沼は漁師さんはじめ海のお仕事をされている方が多いのですが、そういう方々にとって亡くなられた後の事については、やはりお骨がないとお葬式は出せないという強い思いがあるようです。
昔から船は『板子一枚下は地獄』というように、海で生活をしてこられた方々は、お骨にたいして非常に強い思い入れがあるという事を教えて頂きました。

考えてみますと、我々日本人は大なり小なり皆同じかなと思います。
我々が今こうやって無事に暮らしていける事の感謝。
さらに、自然に対する感謝。
これがやはり日本人の中を貫いているものかと思います。
そして、その自然の中では1人で生きていく事は難しい。やはりそこで、人と人とが手に手を取り合って生きて行く。
ましては、こうした大変な災害の後、今人と人との絆というものが見直されてきていると思います。

新聞で見たのですが、大震災以降結婚をする方が増えたと読みまして、『あーなるほどな』と思いました。

こういう事が起きた時に、やはり1人でいるというのは非常に不安な事であります。
ですから、色々な縁を頂いてこうして暮らしている。
従って、この縁というもの、絆というものをより大切に生きて行く。
これが自然と共に生きていく事になるのではないかと思います。

先ほどお唱えさえて頂きました観音経の中に、念念勿生疑(ねんねんもっしょうぎ)という一句があります。それは少しでも疑いを持ってはいけませんよ。
観音様をひたすら信じなさいという教えに繋がります。

我々は縁というものを考えた時に、これにはやはり人と人との縁を繋ぐ何かがあるのではなかろうか。
それが、観音様をはじめ仏様の世界になるのではないと思います。

我々が仏様に手を合わせるという事は、仏様の向こう側にいる全ての人々に手を合わせる事に繋がります。
逆に言えば、我々も向こう側から手を合わされています。

そうやって我々は仏様を大事にする、観音様を大事にする事で、実は目に見えない皆さんを大事にする。また、自分も皆さんから大事にされる。
これが、持ちつ持たれつという事になります。

気仙沼に慰霊で伺った際に私どもが感じたのは、特にこういう時ですから亡くなられた方に対する祈りが被災地では要求されております。
この間もテレビを見ていましたら、釜石市の方で被害にあった商店街の皆さんで臨時の商店を開いたところ、沢山の人が買い物に来られたようです。
中には、避難所にいるとお刺身を食べる事が出来ず、久しぶりのお刺身に喜んでいる方や、牛乳もずっと飲めなかった為、それが嬉しいと言っている方がおられました。

その中でもやはり生花が良く売れていました。
その生花をお墓に、または亡くなった方にお持ち頂いているのですね。
ですから、日本人の心の中にはやはり亡くなられた方を大事にする気持ちが充分に残っているなとしみじみ感じてまいりました。

今日も、観音様は皆さんがおいで頂いた事に本当に喜んで下さっているなとひしひしと感じました。
また、皆さんのお供の声がどんどん響いて観音様を揺すぶっているような感じさえ致しました。

今日はあいにくの空模様になってしまいましたが、雨が降るという事は、仏教では天からの頂きものという事で非常に良い印とされております。ですから、
今日も大祭の為に水の贈り物をご供養して下さったのだなと私も嬉しかったです。

以上で、23年春の大祭の法要を終わりにさせて頂きます。

ありがとうございました。