2018年 3月の法話

『開経偈の教え』

今日は開経偈(かいきょうげ)についてお話します。
「無上(むじょう)甚深(じんじん)微妙(みみょう)の法は、百千万劫(ひゃくせんまんごう)にも遭い遇うこと難し(かたし)、我れ今見聞(けんもん)し受持することを得たり、願わくは如来真実の義を解せん。」
読んでみても今ひとつ身近なものに感じられないと思います。
最初にある「無上」は、この上なく素晴らしいという意味です。
「甚深」は奥が深い。
「微妙(みみょう)の法」は微妙(びみょう)と同じような意味です。仏教では微妙をみみょうと読みます。微妙(びみょう)とはどっちかはっきりしない事ですよね。例えば料理を食べて、この料理微妙だね、と言ったりしますよね。微妙(みみょう)はちょうどいい具合のことを言います。この微妙(びみょう)という言葉を仏教で置き換えてみますと、中道(ちゅうどう)という言葉にすることができると思います。今お彼岸ですが、お彼岸の真ん中を中日(ちゅうにち)と言います。その中日の中の字をとって中道です。中道とは、右でも左でもどちらでもなく、偏らない立場であることを意味しています。ということで、微妙は中道と置き換えられると思います。つまり、仏様の教えは偏らないものだと言う事です。
「百千万劫にも遭い遇うこと難し、我れ今見聞(けんもん)し受持することを得たり」の劫は、仏教では時間の単位を表しています。百千万の長い時間でめぐり逢う事は難しいけれど、今仏教の教えを見たり聞いたりして、その教えを自分のものとして保つことができるようになったということになります。
そして最後の「願わくは如来の真実義を解せん。」ですが、仏様の教えを必ず理解いたします。という誓いになります。
ここまでお話してもまだ分からないと思いますので、さらに軟らかく話します。

我々にとって仏様の教えは理解できるもの。ですが、お経の本を読んで意味が理解できたかというと、できていないと思います。頭でお経を理解しようとするのは中々難しいことです。しかし、どうやって理解すればいいのか。例えば昔の言葉にあるように「読書百遍義自ずから通ず」という言葉があります。どんな難しいものでも百遍繰り返せばなんとなく分かってくるということです。と同時に我々は知識に頼っていると事態がなかなか進まないことがあります。例えば辞書で無常の意味を調べてみようとすると、その意味の中に分からない言葉があるとまた辞書を引きます。またその中の言葉の意味が分からなかったらまた辞書を引きます。そうやって1つの言葉の意味を知るために何度も辞書を引いていると、なかなか答えにたどり着きません。ではどのように理解するかというと、体得です。体で覚えるというのは例えば、お経の本を家で読むのと、観音様にお参りして読むのとは違います。なにが違うかというと、苦労して観音様のとこまで行って読むお経は有り難くなります。苦労して得たものと、楽をして得たものでは身につく度合いが違ってきます。私が話しているのを皆さん一生懸命に聞いてくれています。しかし、普段の生活の中で、話を一生懸命聞くより、自分が話してしまうということのが多かったりしますよね。聞くという姿勢は体得に繋がると思います。さっき言いましたように神妙に座ってお経を読むという姿勢も体得になると思います。そのような事を積み重ねていくことでだんだんと仏様の教えが知識としてでなく心として伝わってくるようになります。このようなことを開経偈で教えてくれているのではないかなと思っております。

以上で3月の月例祭の法話を終わりにさせていただきます。